知行合一とインド映画とファインマン

大河ドラマ「花燃ゆ」を観てて、吉田寅次郎が「知行合一」という言葉を使っていた。

王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであることを主張し、実践重視の教えを主張した。朱熹の学(朱子学)が万物の理を極めてから実践に向かう「知先行後」であることを批判して主張した。

知行合一 - Wikipedia

まずはしっかりインプットした方がいいのか、それとも今直ぐにでもアウトプットした方がいいのか。この種の主張対立は現代日本でもよくみかけるが、古くは古代中国でも行われていたということらしい。

それはともかく「知って行わないのは、未だ知らないことと同じ」とはなかなかに手厳しい。行動に移せないなら、知識としてもっていても意味が無い、とも取れる。

ところで知識と行動といえば「きっと、うまくいく」を最近観た。

きっと、うまくいく [DVD]

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映画館で一回観て、また観たくなって今度はレンタルして観た。スピルバーグは「3回も観るほど大好きだ」と絶賛していたので、僕ももう一回くらい観たくなるかも知れない。

閑話休題

大雨の中、主人公が通う工科大学の学長の娘が産気付くのだが洪水のために救急車が向かうことができず、やむなく病院とwebカメラでつなぎ、大学構内で出産をする、という場面がある。その時、停電が起きるものの、主人公が車のバッテリーを引っ張ってきて自作のインバータで電気を復旧したり、なかなか出てこない子供を引っ張りだすために掃除機を改造して医療器具もどきを作り、その結果なんとか学長の孫が無事に生まれる。

もともとこの映画は昨今インドで加熱する競争社会を批判するものだ。競争に勝つことこそが重要で、卒業生の就職先にしか興味が無い学長は、そのような競争社会を象徴する登場人物。だがくしくも孫の命を救ったのはそれまで対立してきた主人公であり、己がこれまで信じてきた詰め込み教育の無意味さを悟る、という大事な場面なのだ。

これもまた知行合一の一つだろう。雨の中の停電に対処できたのは主人公が生きた知識を持っていたからだった。知っていても、行動に移すことができなければその知識は死んでいるも同然。

他の話題としては「ご冗談でしょう、ファインマンさん(下)」に出てくるブラジルでのエピソードを思い出す。

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈下〉 (岩波現代文庫)

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈下〉 (岩波現代文庫)

ブラジルの大学に客員教授として呼ばれたファインマンはブラジルの学生が教科書に書いてある質問には一字一句違わずに答えられる一方で、少しでも知識の応用が必要な問題を出すと誰も答えられなくなることに驚くとともに大いに憤る。帰国際の講演会でブラジルでの詰め込み教育を痛烈に批判する。

僕はそこでパラパラパラパラと本をめくり、指の当たった箇所を読み始めた。

「「摩擦ルミネセンス」。摩擦ルミネセンスとは、結晶体が潰された時に発する光である。」

「さてここに科学があると思いますか?とんでもない。これは言葉の意味をまた別な言葉で言い換えただけのことです。 (略) この箇所を読んだ学生は、家に帰ってこれを実際にやってみるでしょうか?できるわけがないでしょう。」

「だがもし「暗いところで砂糖のかたまりをペンチで潰してみれば、青い光が見えるはずだ。それ以外の結晶体でも、このように光を発するものがあるが、なぜそれが起こるかは不明である。この現象は摩擦ルミネセンスと呼ばれている」と書いてあれば、誰でも家に帰って試してみることができるはずです。それでこそ始めて自然をじかに経験することができるというものです。」

p.53 『オー、アメリカヌ、オウトラ、ヴェズ』より

行動を起こせるかどうかは勇気の有無に依ると思われることが多いが、起こせるような生きた学問を納めていなければその一歩はおぼつかないし、それは蛮勇でしかない。

知って行わないのは知らないのと同じだ。それと同時に、行動に結びつけるには正しく学ばないといけない。

そんなことを伊勢谷友介演じる吉田松陰を見て考えていた。