震災から九ヶ月経った気仙沼市、陸前高田市を訪ねて

百万都市仙台から電車に揺られること四時間弱。冬の気仙沼駅についたのは、年の瀬も押し詰まった三十日の昼過ぎだった。旅の目的地は高田松原に残された奇跡の一本松。最寄り駅の陸前高田駅の復旧の目処は依然として立っておらず、ここ気仙沼駅から先はその他の交通機関を使わねばならない。片道18km近い道程は、タクシーに乗ると4000円以上かかる。バスは朝と夕の二本のみ。僕は自らの足で被災地を歩き、陸前高田を目指すことにした。

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津波火災に包まれた気仙沼の衝撃的な映像が目に焼き付いて離れない僕は、帰省してきた家族を迎えに来た車の列や、駅前の小奇麗なホテルを見て一瞬虚を付かれると共に、少しほっとした。

だが、駅を離れ気仙沼港に続く下り坂を進んでいくにつれ、気仙沼駅が小高い丘の途中に位置しており、そのため津波の被害を免れただけだということを知ることとなる。

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海が近づき、次第に一階が津波にさらわれたような建物が目につくようになってきた。ガラスは割れ、シャッターはねじ曲げられ、柱は朽ちている。その様子は、テレビを通して見る遠い異国の地のスラム街のようだった。本当にここは日本なのかと我が目を疑う光景が続く。

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そして、海抜0m付近ともなると、全て津波に押し流されてしまったのだろうか、鉄筋造りの大きめな建物以外は姿を見せなくなった。残された建物も大きく歪み、どのみち解体されるのを待つ運命だろう。陸地には打ち上げられた漁船がいくつも転がっており、そうした場違いな仕事道具達が、津波が押し流したのは人々の住む家だけでなく、多くの産業も甚大な被害を被ったのだと教えてくれる。

そこから先は国道45号線をひたすら走って北へ向かう。道路の電光掲示板に0度と表示されている。当然外を走っているのは僕だけで、すれ違う車からは奇異な視線を向けられた。

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気仙沼を出て13kmを過ぎたあたりから雪が降り出し、あたりの景色をみるみるうちに白銀色に染めていく。被災地はこれから震災後初めての冬を迎えるのだ。

一人見知らぬ地を雪に打たれながら走っていると、色々な考えが頭をよぎる。途中いくつも津波にさらわれたと思われる住居跡を目にした。あの家に住んでいた人は今どうしているのだろう。家族に囲まれ、温かい正月を迎えようとしているだろうか。

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気仙沼をあとにして二時間、僕はついに陸前高田へとたどり着いた。あれほど強く降っていた雪もいつしか上がり、綺麗な冬晴れの空が広がっていた。視線を空から地に向けると、瓦礫や木材の山が積まれている。骨格だけを残して全てをさらわれた三階建ての気仙中学校の姿は見る者に対し、この街を襲った津波の高さと強さを強烈に印象づける。

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それこそ何も残されていない、かつて高田松原があったであろう海岸線にあって、ただ一つ天に向かって伸びる一本松を見つけることは、残酷なまでに容易かった。かつては七万本もの松があった。その中で唯一残った奇跡の一本松。見る者の心を揺さぶるその勇姿を前にして、僕は立ちすくみ、そして、手を合わせずにはいられなかった。

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猛烈な津波に飲まれながらもなんとか耐えぬいた一本松だが、実は海水に根をやられ既に枯れていることが分かっている。朽ちていくのをただじっと見守ることしか我々にはできない。だがその力強く天にそそり立つ姿は、死してなお倒れることなく敵を睨み続けた武蔵坊弁慶の最後を思わせる名往生だ。奇しくも、弁慶が逝った平泉は昨年の六月に東北地方初の世界文化遺産に登録されている。

一本松の根元にはお地蔵様が祀られていた。被災地の一日も早い復興を願ってやまない。

次はボランティアとして被災地に行きたい

本来ここでは、東北を訪ねてみてどう思ったか、今後どうしていきたいかなどを語られるべきだろう。しかし、目に飛び込んでくる被災地の風景と、そこで生活している人の力強さに触れ、僕はただただ言葉を無くしてしまった。陸前高田から気仙沼に戻るバスを待つ間、暖をとらせてもらったガソリンスタンドの従業員方が語る地震、そして全てを飲み込む津波の話、それでいて全てを受け入れ未来に向けて歩み出そうという強い意思を前にして、僕のような部外者が上っ面だけの同情をして一体何の足しになるというのか。

今回、ガソリンスタンド以外でも何人かの方と話をする機会があったが、その度に「ここにはボランティアで来られたのですか?」と聞かれ「はい、そうです」と胸を張って答えられない自分が本当に心苦しかった。

僕に何ができるのかは今でも分からない。しかし、2012年は被災地の復興元年。一過性の熱狂ではなく、継続的な辛抱強い支援が必要とされている。長い三陸の冬が終わり、雪が溶け、暖かな日差しが戻ってきたら、きっとまたここに戻ってきたい。