作文が上手な女の子がいた

小学校の頃、夏休みの度に作文コンクールで最優秀賞だか優秀賞だかを獲得する女の子がいた。
彼女は様々なボランティア活動に従事していて、そういった活動の話やそれらを通じて思ったことなどを綴っていた。そもそも文章力が高かったし、やってることからして見上げた行為なのであるから、華々しい受賞歴の数々は当然の結果だと言える。つまり、実力を遺憾なく発揮していた、という訳だ。
一方、小学生だった僕は作文コンクールで入賞したことなど一度としてない、というかこのブログを読めば分かる通り、作文は苦手だった。
にも関わらず、当時からひねくれ者だった僕は、偉業の数々を目にしながら「ネタがいいからあんなに評価されるんだ」などと斜に構えていたのだ。
だが、その考えは2つの意味で間違っていた、と思っている。
1つ目は、彼女が書いたから優れた文章になったのだ、ということだ。同じ経験を僕が綴ったところで一文の価値ももたない駄文しか生まれなかったことだろう。
そしてもう1つが、何を経験したかは必ずしも重要でない、ということである。人は24時間生きる中で24時間分の物事を経験する。それらの中から何を考え何を感じ取るのか、その方がよっぽど重要である。
多くを感じ取りやすい出来事、心に残りやすい出来事というのは確かにある。その意味においてボランティア活動というのはまさにそういう出来事だろう。
だからと言って、日常の些細な出来事では文章にするのに足りない、ということは無いはずで、要はそこに目を向けるか向けないかの問題なのだ。書き手の感性を問われているとも言えるかも知れない。
2003年5月13日
高校2年生だった僕は、その日の陸上日誌*1にこんなことを書いていた

今日の練習がふがいなかったので、夜Jogをした。その時、だいぶ蝉の鳴き声が煩かった。今から蝉が鳴くとは、今年の夏は熱くなりそうだ。この蝉の鳴き声が聴こえなくなる頃、自分は一体今よりどれ位強くなっているだろう。

気がつかないだけで、僕の周りでは多くのできごとが起こっている。
その一つ一つに目を向けられたなら、毎日がもっともっと輝いて見えるに違いないと、僕は思うのだ。
今年は残暑が厳しい。蝉もよく鳴いている。

*1:僕は中高と陸上部だった