影響が及ぶ範囲に注力する

ミクシイに久しぶりに日記書いた。

で、せっかくだしこっちにも転載。

GWを満喫しているマイミクのみなさん、こんにちは。

お久しぶりです。元気ですか?


さて

長い学校生活の中で忘れられない出来事って沢山ありますよね。

何かに熱中した記憶だったり、何気ない友人の一言であったり、恋愛のことであったり。

僕にも、そういった大切な思い出が沢山あるのですがその中の一つに高一の現代社会で1年間を通じて全てのテストに『主体的に生きる』が答えの問題が出題された、というのがあります。

当時、現代社会を受け持っておられたM村先生が、それこそ耳にタコができるくらい、『主体的に生きるのが大事なんだ』って繰り返し言っていたのが忘れられません。

例え物理の公式を忘れたとしても、『主体的に生きろ』という先生の言葉は死ぬまで連れ添って生きていくことになるんだろうと思います。


で、

ここからが本題なのですが、『主体的に生きる』ということの意味を僕は高校の時からずっと考えています。

いや、概念として『主体的に生きる』ということがどういうことなのかは分かっているつもりです。

ソクラテスの言葉を借りれば『よく生きることが大切』ということだし、世の哲学者も手を変え品を変え説明しています。

でも、僕は自分の言葉でどういう事かを表現したい。

でなければ、本当の意味で主体的な人生を送っているとは言えないのではないか、という脅迫めいた感覚すら覚えているのです。ホントです、ホント。


さて、長い年月をかけて考えているので、その時々で表現は変わってきたのですが、最近になって

『己の人生に対する責任を一手に引き受ける』

ということなんじゃないかという考えに落ち着いてきました。


これは「やるもやらぬも本人次第」ということではありません。

もっと言葉数を増やして語るなら

一見自分にはどうしようもないような問題が降りかかってきた時(例えば不当に理不尽な扱いを受けた時とか)に「こんな目に合うのは自分の責任じゃない」と居直るのではなく、あくまでも自分が影響を及ぼせる範囲に注力し、力強く前進し続ける

ということです。


言葉としての形が見えてくると

じゃあどのようにすれば『己の人生に対する責任を一手に引き受けて』生きていけるの?

という問題が次に現れてきます。

こいつは難問です。どうすればいいんでしょう?あぁ困った困った。


というのが昨日までのお話。

ここからが今日の話し。


持つべきは友、ということなのでしょうか。

友達に「あぁでもない。こうでもない」と一方的に語っている内に、上でも書きましたが

『自分が影響を及ぼせる範囲に注力する』

ことが肝心なんだと気がつきました。


過去に執着して生きることは、主体的な生き方ではない。

何故なら、過去の出来事は影響の範囲外だからだ。今更どうあがいても、過去を変えることはできない。


未来を心配して縮こまるのは、主体的な生き方ではない。

何故なら、心配しているだけでは影響を及ぼせないからだ。


未来を見据え、虎視眈々と準備するのは主体的な生き方だ。

何故なら、準備をすることは、己の影響の範囲内にあるからだ。


他人の評価を過剰に気にするのは主体的な生き方ではない。

何故なら.....



とまぁ

相変わらずモラトリアムマンセー!!な生活を送っていますw


たまには生存報告でもしようと思って筆を持ったならぬ、キーボードに手をおいた次第でございます。



最後に、


他人の評価を気にするのは、大学受験で最後にしようぜ!!


では、また数ヶ月後の日記でお会いしましょう。

さいなら