認知的不協和と学位について

昨年の小保方事件の頃のことだったと思うが、彼女の博士論文にも不正が指摘されにわかに博士号というものの価値についての議論が湧き上がったことがあった。

さまざまな意見が出たが「博士号取得は難しくあるべきだ」という意見が、大学で高等教育を受けた人を中心に多く表明されたように思う。かく言う僕も博士後期課程まで進学した過去を持ち、大方同じような意見だった。

そんな折に寺田寅彦学位について という随筆を読んだ。この文章は学位売買事件が発端になって書かれたものだが、寺田の博士号に対する意見を簡単にまとめればこのようなものになる:

  • 学位を何か崇高なものだと考えるのがそもそもの間違いで、大学を卒業した人ならとろうと思えば誰でも博士は取れるし、学士と博士の違いは取れるまで辛抱を続けるかどうか程度のものでしかない
  • 学位を大層なものにしておくから不祥事が起きるのであって、惜しまず遠慮無く学位を授与すればいい
  • 学位などは惜しまず授与すればそれだけでもいくらかは学術奨励のたしになるし、一人でも多くの国民が学術研究に従事することの方が価値がある

学位の価値について今一度考えなおす契機となった。今では僕は割と寺田の意見に近い立場を取っている(断っておくが、捏造論文にも博士号を与えよ、などということは微塵も考えていないし、寺田も言っていない。難しくあるべき、という部分について考え方が変わったというだけだ)。

それとは別に僕がこの随筆を読んで「はっ」としたことは、なぜ今まで博士号は難しくあるべきだと思っていたのだろうと考えた時のことだった。僕の博士号礼賛思想は割と盲目的で、他の選択肢を検証した上でのものではなかった。そのことに思い至り、僕がかつて博士後期課程まで進んだということは先に書いたが、今までの考えはこの経験から生まれた認知的不協和だと気がついたのだった。

認知的不協和とは現実と考えの間の辻褄が合わないとき自分の考えを無意識の内にねじ曲げて無理矢理整合するようにしてしまう現象のことを言う。例えば難しい試験を突破した人は、その試験の存在が否定されると自分の過去の受験勉強の努力も否定されてしまうので、結果としてその試験を後生大事なものだという認知するようになる。博士課程で苦しんだ人は、博士課程の苦しみを価値あるものだと思い込む。

この現象の恐ろしいところは、渦中の人にはそれがなかなか分からない所にある。実際問題、僕は博士号が難しくあるべきという点について何の疑いもなく信じていたし、それ以外の選択肢の存在を深く考えたことも無く、はっきり言って思考停止以外の何物でもない。

思い込んだものが運良く正しいこともあるかも知れないが、思慮深い検討の後に至った結論と比べると、いかにも危うい。

こういった思い込みというのは誰しも多かれ少なかれ内に秘めているもので、なかなか抗い難いものではあるのだが、僕としてはどうにかして抗っていきたい。始めの一歩は、その呪縛の存在に気がつくことだと思う。そのためには今回のように外の意見に広く目を向ける以外に無く、さまざまな考えの人と話、多くの本に触れることが大事だろう。

そういえば最近 id:shiba_yu36 がこんなブログを書いていた。

僕の中で学習目的で書籍を読むときは以下の三つの目的のどれかに絞っている。

  • これからの課題を解決する方法を見つけるための読書
  • これまでうまくいったことの言語化を行うための読書
  • 視野を広げるための読書

この三つのどの目的で本を読むか、自分の中で明確にしてから読むようにしている。

学習のため書籍を読むときは明確に目的を決める - $shibayu36->blog;

なるほどこの分類を意識するのはよさそうだなと思った。さしずめ僕に特に必要なのは3つめの姿勢なのだろう。

というわけで、2015年はもう少し非技術的なことについてもインプット&アウトプットしていくようにしたい。長らく放置してしまったこのブログだが、そういうわけで今年はちょこちょこ書いていこう、という少し遅目の新年の抱負エントリである。

今年もどうぞよろしく。

焼き肉と日銀

小学校から大学へと色々な友達がいて、次の段階に進む度に別れてきた。一般的にいって、その別れが幼い頃の人ほど、その後の人生で歩む道は大きく乖離していく傾向はあるように思う。小学校・中学校の友達の中には、既に堅気でなくなった奴もいるかも知れない。

それは逆に言えば、大学の友人とはそこまで大きく乖離しない、ということでもある。そしてそれが同じ学部の友人ともなれば尚更だろう。さらにいうなら僕が属している業界は、世の中の各種業界の中でも特に世間が狭い部類だから、いたるところで知人とすれ違う。大学の友人とはだいたい似たり寄ったりな感じだ、ということである。

そんな中で今日夕食をともにした、友人はなかなかに新鮮だった。私服で日頃仕事をしている僕と、スーツに身を包んだ彼。片や少人数のスタートアップで働くかと思えば、一方は日銀で黒田総裁を支える日々だという。知らない世界の話を聴くのは実に楽しいものだ。

知らない世界の話といえば、これは本を読む衝動にも似ている。小説を読む、楽しむ。けれど結局はフィクションなんだと心のどこかで思う。

だが今日の話は現実のものだ。そこがたまらない。

禅問答は何故屁理屈的なのか、あるいはどうすれば言葉を超越できるのか

公案、いわゆる禅問答は屁理屈で論理的に破綻していて聞き手をあざ笑うかのような印象を受けるものばかり。真面目に取り合うとバカにされていると感じるのが普通なのに、人はその世界に惹きつけられる。全くもって不思議な話だ。

なぜ禅というか禅問答はそんな言葉遊びみたいなモノばかりなのか。それを考える鍵は、「禅」が目指す「悟り」にあるように思う。

「悟り」を最も簡単に言い表すと「超越的二元論」になるのだと高校生の時に何かで読んだ記憶がある。当時の僕には何がなにやらわけが分からなかった。だが、今になると少しだけ分かる。二元論を超越するものとは二元論では表現できないもの。

言葉とは根本的に二元論的だ。それぞれの言葉はある一つの概念に輪郭を与え、それとそれ以外とに分ける。例えば「りんご」という言葉はりんごとりんご以外とに世界を分割する。

つまり、言葉では言い表せないものは二元論を超越した存在だ、ということだ。(何も言葉だけが二元論を規定するとは言っていないので注意。)

人類の歴史の上で偉大な発明は数あれど、その中で「言葉」の発明ほど重要なものは無いと思う。言葉が無ければ人は思考することができない。「我思う故に我あり」というなら言葉が無ければ人類はありえない。

それくらい深く人に刻まれている言葉。それを超越した境地である「悟り」に近づくためには、生まれて以来びっしりと絡みついてきた言葉の引力から精神を引き剥がす必要があって、あの屁理屈は、つまりそういう役割を果たすためのものなんだろう、というのが最近の研究成果。

こちらからは以上です。