禅問答は何故屁理屈的なのか、あるいはどうすれば言葉を超越できるのか

公案、いわゆる禅問答は屁理屈で論理的に破綻していて聞き手をあざ笑うかのような印象を受けるものばかり。真面目に取り合うとバカにされていると感じるのが普通なのに、人はその世界に惹きつけられる。全くもって不思議な話だ。

なぜ禅というか禅問答はそんな言葉遊びみたいなモノばかりなのか。それを考える鍵は、「禅」が目指す「悟り」にあるように思う。

「悟り」を最も簡単に言い表すと「超越的二元論」になるのだと高校生の時に何かで読んだ記憶がある。当時の僕には何がなにやらわけが分からなかった。だが、今になると少しだけ分かる。二元論を超越するものとは二元論では表現できないもの。

言葉とは根本的に二元論的だ。それぞれの言葉はある一つの概念に輪郭を与え、それとそれ以外とに分ける。例えば「りんご」という言葉はりんごとりんご以外とに世界を分割する。

つまり、言葉では言い表せないものは二元論を超越した存在だ、ということだ。(何も言葉だけが二元論を規定するとは言っていないので注意。)

人類の歴史の上で偉大な発明は数あれど、その中で「言葉」の発明ほど重要なものは無いと思う。言葉が無ければ人は思考することができない。「我思う故に我あり」というなら言葉が無ければ人類はありえない。

それくらい深く人に刻まれている言葉。それを超越した境地である「悟り」に近づくためには、生まれて以来びっしりと絡みついてきた言葉の引力から精神を引き剥がす必要があって、あの屁理屈は、つまりそういう役割を果たすためのものなんだろう、というのが最近の研究成果。

こちらからは以上です。