Give & Take

僕は正直言って、自己中心的な考え方をしてしまうことがある。そして、その様な考えを持ってしまう自分に辟易している。そのように考え、行動してしまうのは僕が思い描く理想の自分とは違う。かといって、一方的に利用されるのもダメだ。
それと同時に、これこそ自己中心的の極みのような話だが、そのような利己的な人やその振る舞いを目にするのが苦痛でならない。当然、そのように考えてしまうことにさらに自己嫌悪している。
どうすれば、このジレンマから脱出できるのか。ちょっと考えてみた。

組織と個人

組織

組織の中に成果は存在しない。内部には、コストセンターがあるだけである。

とドラッガーは言う。組織の中で働いているとき、ほかの者が彼の貢献を利用してくれる時に限りその貢献は意味を持つ。逆に、彼の貢献が誰にも利用されなければ、それはコスト以外の何物でもない。
例えば、開発部が新商品を作ったとする。だが販売部が外部にその製品を売らなければ、新商品を開発するためにかかったありとあらゆる努力がコストに成り下がる。販売部は開発部の成果を利用して商品を売る。販売部が売った成果で、開発部の人に賃金が支払われる。
この時、開発部の人は販売部に利用されていると感じるだろうか。確かに、「販売部が無能だ」などと不平を募らせることはあるだろうが、これは利用されることに対する不満ではなく、利用のされ方に対する不満だ。

個人

人に利用される、というのはあまりいい気分ではない。だから自分の成果を独り占めしようとする人は多いだろう。
「せっかく私が努力したのだから。利益を享受する資格は、利益を生み出した自分にこそある。」
と正面きって主張する人はあまりいないが、心の中でそのように思っている人は意外と多いのではなかろうか。自我に目覚めたばかりの子供がおもちゃを独占したがる、という話はよくある話だが、そんな子供を駆り立てる程に独占欲というのは人の根源的な欲求なのだろうか。
それに、そのような利己的な振る舞いをする人が、長い目で見て幸せになれるとは思えない。現代社会に生きている時点で、人は必ず何かしらの組織に組み込まれている。己の生み出したモノを他人にが利用できなければ、その人自身には成果をもたらしても、組織として見たらコストでしかない。組織が衰えれば、その構成要素である個人にもしわ寄せが何かしらの形で及ぶだろう。
組織を一つの個人として考えることもできる。利己的に商品を高値で売りつけたりしようとする。けれど、いずれはそのしわ寄せを自身で被ることになるはずだ。

与えよ。されば、与えられん。

利己的に振舞うと、いずれは自分自身に返ってくる、ということに気がついた人は利己的には振舞わなくなるのだろうか。悲しいけれど、そんなことは無いような気がする。例え利他的に振舞うことが自身の利益を最大化させるとゲーム理論的に結論付けたとしても、利己的な考えを拭い去ることは難しいだろう。それは、自己中心的に振舞うことによって得られる見栄とか優越感に即効性があるからだ。長い目で見て行動できる人はなかなかいない。
結局のところ、この麻薬的な魅力を振り払って成果を共有させるには、提供を受ける側がそれ相応の対価を支払うしかないのではないだろうか。

他人を変えることはできない。変えることができるのは自分だけだ。

とはよく言ったもので、「利他的に行動した方が、最終的に良いことあるよ。」と他人に説いてみたところで、自己開示を一方的に求めるのは極めて自己中心的な話なので、人を動かすことなど到底できない道理である。そもそも自己矛盾なのだ。気がつけよ、馬鹿。
だから自己中心的な振る舞いをする人が嫌だ、なんていう自己中心的な考えはやめて、相手が納得して提示するだけの対価を支払えばいいんだ。自己中心的な人が嫌いなら、その人が思わず首を縦に振ってしまうような、餌を用意してやればいいんだ。それができない時はスパッと諦める。
逆に、自分が提示する側の時は、相手に対価を求めてもいいはずだ。将来のリターンが期待できるなら、たまには無償で提示してもいいかも知れないが、それすらも期待できないなら自己犠牲をする必要は無い*1。相手に対価を要求するのは自己中的に思えるかも知れないが、無償で提供させようとする相手もまた自己中心的なのだからしょうがあるまい。

結論

相手に無償の愛を求めるな。相手を変えるには自分から変わるしかないのだから、それ相応の対価を準備すること。それができないのに「自己中、自己中」と騒ぐことこそ自己中の極みだと知れ。
逆に、相手に対価を求めることにためらいを感じる必要はない。要求することは当然の権利だ。ただし、度が過ぎると単なる自己中になるので注意すること。

最後に

あれ、こんな殺伐とした結論でいいのか?まぁ、いいや

*1:自己犠牲によって自己満足を得るのも有りだけど