子供と大人の境界線
小学校の時に国語か道徳の時間に読んだ、ある物語のことをふと思い出した。
話のあらすじはだいたいこんな感じ
小学1年生のAちゃんには悩みがあった。
それは、彼女が学年で最も背が低いことだ。
小学2年生の人は皆、Aちゃんより背が高い。
Aちゃんより背の低い人は誰一人としていなかった。
だからAちゃんは早く2年生になりたかった。
2年生になったら、自分も大きくなるに違いないと思っていた。
4月1日。
2年生になったAちゃんは朝起きて急いで身長を測った。
だが、身長は全く伸びていなかった...
大人(?)になってみて
だいたい誰でもそうだと思うけど、小学生の頃20歳を超えた人なんて皆大人に見えた。
現在23歳。
僕は大人じゃないが、世間が23歳の男に求める程度には大人になった気がする。
明日、僕が彼女の家に行って「娘さんと結婚させてください」と仮に言ったとしても
義父「出直して来い、小童めが!お呼びでないわ!」
などと門前払いを喰らうようなことはないだろう。その程度には大人だ。うん、きっと、たぶん。
かといって、じゃあどこら辺が大人になったかと聞かれても、答えに窮するというのも事実。
でも、この物語を思い返してみて、少なくともAちゃんより今の僕の方が大人だと主張できる点があることに気づいた。
それは
人は連続的に変化していく、ということを知っている
という事だ。人はある日突然変わったりしない。
そして、これこそが子供と大人を分ける分水嶺なんじゃないかと、思った。
境界線のこっち側
- 突然には変わらないことを知っている。
この境界線を超えることを俗に「現実を知る」と言うのかも知れない。
次なる峠を目指す
現実を知る、のと、人生を諦める、というのは大きく異なる。
何故なら、現実を知ったことに対してどのように反応するかを決める権利は自分自身にあるからだ。
人生を諦めるのは、現実を知ったことに対する反応の一つに過ぎない。
僕は大学に来てコンピュータサイエンスに限らず多くのことを学んだ。その最たるものが
人生の最大の目標は、人格の陶冶にこそある
という事実だ。人はある日突然変わったりしない。人格なんて尚更。一朝一夕でどうこうなる話じゃない。
でも、境界線を超えた今の僕には大した問題ではない。ある日突然人は変わらないが、人は日々変わっていけることを知っているからだ。
三国志の呂蒙がこんな言葉を残している
男子三日会わざれば刮目して見よ。